考えること、意思すること、行為することの根本は、
肉体からではない。
霊的な内奥の自分からである。
この内奥の自分は、神とつながっている。
故に、自分自身が考え、意思し、行為するのではなく、
自分と云うものを通じ、肉体を使って、
現実界への営みを
神がなし給うているのである。
〜446頁〜
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私たちが忘れていることは
心の奥底で
神とつながっているということ。
心 身魂の掃除洗濯をして
無となる心にみえてくるもの
思い出すこと
伝えてゆく
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浄化し弥栄しゆく悪は悪ではなく、
偽は偽ではない。
動かざる善は善でなく、
進展せぬ真は真ではない。
更に善を善とし、
悪を悪として、
それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。
歓喜は神であり、
神は歓喜である。
〜386頁〜
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善行を心で思っているだけでは
何にもならない
それを為してこそ
善であり真となる
悪行を為しても
その行為をした自分を
反省し乗り越えるために
許すという
身魂の掃除洗濯
喜びの心で為してゆく
霊人が地上人に語る時は、
その想念が同一線上に融和するが為である。
霊人が地上人に来る時は、
その人の知る総てを知ることとなるのであるが、
その語るのは霊人自身でなくて、
霊人と和合して体的の自分に語るので、
自分と自分が談話しているのである。
霊人は現実界と直接には接し得ない。
また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。
しかし、それぞれの仲介を通じていっても、
直接行うのと同様の結果となるのである。
為に地上人は直接なし得るものと考えるのである。
地上人の思念の中には霊界が映像されており、
霊人の思念の中には現実界が内臓されている。
故に、この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。
しかし、映像と実相のへだたりはかなり遠いものである。
霊人の地上人との交流において、この間の真相を知れねばならぬし、
その互に交わされる談話に於ても前記の如くであることを知らねばならない。
霊人が地上人に憑依したり、
動物霊が人間に憑依したりすることは、
前記の如き原則によってあり得ないのである。
しかし、外部からの感応であり、
仲介された二次的交流であっても、
その度の強くなった場合、
地上人から見れば憑依せると同様の結果を表すものである。
故に、神が直接、
人間を通じて人語を発し、
または書記するのではなくして、
それぞれの順序を経て地上人に感応し、
その地上人のもつそれぞれの人語を使用して語り、
その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。
しかし、神の言葉は、
如何に地上人を通じて人語としても、
その神に通ずる思念と内蔵せぬ地上人には、
伝え得ないのである。
語れど聞き得ず、
読むともその真意は通じ得ないのである。
霊人の中には、
自分達の住む霊界の他に、
別の世界が限りなく存在することを知らず、
また、その世界に住む霊人を知らず、
また物質世界と地上人を知らない場合もある。
それは丁度、
地上人の多くが、
生前及び死後の世界を信じないのと同様である。
〜429・430頁〜
すべての善はゝより起り、
ゝにかえるのと同様、
総ての悪もまたゝより起りゝにかえる。
故に、神をはなれた善はなく、
また神をはなれた悪のみの悪はあり得ないのである。
〜442頁〜
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善も悪も神より起こり
そして帰ってゆく
元は一つなのだということ
己が発すれば己に帰ってくる
善き事も悪しき事も
地獄はないのであるが、
地獄的現われは、
生前にも、
生後にもまた死後にもあり得る。
しかし、
それは第三者からそのように見えるのであって、
真実の地獄ではない。
〜450頁〜