この道分かりた人から一柱でも早う出てまゐりて神の御用なされよ。
どこに居りても御用はいくらでもあるのざぞ。
神の御用と申して稲荷下げや狐つきの真似はさせんぞよ。
この道きびしき行(ミチ)ざから楽な道なのぞ。
上にも下にも花さく世になるのざぞ、
後悔は要らぬのざぞ。
カミは見通しでないとカミでないぞ、
今のカミは見通しどころか目ふさいでゐるでないか。
蛙いくら鳴いたとて夜あけんぞ。
赤児になれよ、
ごもく捨てよ、
その日その時から顔まで変わるのざぞ、
神烈しく結構な世となりたぞ。
〜121頁〜
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後悔しないために
この道を行く
厳しい道は楽しい道であると
気付いて
嬉し嬉しの心で
和が根本、
和がよろこびぞ。
和すには神を通じて和すのであるぞ。
神を通さずに、
神をなくして通づるのが悪和合。
神から分かれたのであるから神に帰つて、
神の心に戻つて和さねばならん道理。
神なくして和ないぞ。
世界平和と申してゐるが、
神にかへつて、
神に通じねば和平なく、
よろこびないぞ。
十二の玉を十まで生んで、
後二つ残してあるぞ。
〜736頁〜
思想と申すのは広い意味で、
太神から出てゐるのではあるが、
幽界からの力が強く加つてゐるのぢや。
ネンと申すのは神界からの直々であるぞ。
悪の気、
断たねばネンとならんぞ。
〜697頁〜
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思い込んでしまわず
少し離れたところから
己の心を見ることができるように
正しくないものが正しい方に従はねばならんと
人民申して御座るなれど、
正とか不正とか申す平面的衣を早うぬいで下されよ。
マコトを衣として下されよ、
マコトを衣にするには心がマコトとなりなりて、
マコトの肉体とならねばならん、
カズ コト
マコトとは数ぢや、言ぢや、色ぢや、
その配列、順序、方則ぞ。
〜818頁〜
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自分が正しいと思うことを人に押し付けないように
何が正しくて、
何が正しくないのか
上っ面だけで判断しないこと
心の目でそれを見極めていくこと
現実の事のみで処してはならん、
常に永遠の立場に立って処理せよと申してあろうがな、
生きることは死に向かって進むこと、
マコトに生きる大道に目ざめてくれよ、
神示を始めから読めば何事もありやかぞ。
奥山にあってはならん無くてはならん存在であるぞ。
善人の住むところ、
悪人の休む処と申してあろう、
奥山は神、幽、現の三界と通ずるところ。
八尋殿の左と右に宮が建つ、
奥にも一つ。
〜854・855頁〜
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この世に生まれてきたときから
死に向かって生きてゆく
生まれてきた意味を
マコトを思い出す為に
イシもの言うぞともうしてありたが、
イセにはモノ言ふイシがあると昔から知らしてあろうがな、
五の一四がもの言ふのであるぞ、
ひらけば五十となり、
五百となり、
五千となる。
握れば元の五となる、
五本の指のように一と四であるぞ、
このほうを五千の山にまつれと申してあろうが、
これがイチラ(五千連)ぞ、
イツラ五十連ぞ、
判りたか、
五十連世に出るぞ。
天に神の座あるように
地には人民の座があるぞ、
天にも人民の座があるぞ、
地に神の座があるぞ。
七の印と申してあるぞ、
七とはモノのなることぞ、
天は三であり、
地は四であると今迄は説かせてあったなれど愈々時節到来して、
天の数二百十六、
地の数一百四十四となりなり、
伊邪那岐三となり、
伊邪那美二となりなりて、
ミトノマグハイにて五となるのであるぞ、
五は三百六十であるぞ、
天の中の元のあり方であるぞ、
七の燈台は十の燈台となり出づる時となったぞ、
天は数ぞと申してあろう、
地はいろは(意露波)であるぞ。
判らん者が上に立つことゝなるぞ、
大グレン目の前、
日本のみのことでないぞ、
世界中のことであるぞ、
今度は三千世界が変わるのであるから
今迄のようなタテカヘではないのであるぞ。
何も彼も鏡にうつるのであるぞ。
鏡が御神体であるぞ、
何もうつらん御神体のカガミは何もならんぞ。
〜753・754頁〜
高天原に千木高しりて仕へまつらむ。
岩戸(言答)のひらけた、
その当座は、
不合理に思へることばかりでてくるぞ、
逆様の世界が、
この世界に入り交るからであるぞ、
親よりも子の方が早く目さめるぞ、
子が親となるぞ、
さかさまの世界と申しても悪の世界ではないぞ、
霊の世界には想念のまゝにどんなことでも出来るのであるぞ、
うれしい、
こわい世界が近づいて来ているのであるぞ。
〜755頁〜
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想念のままにできてしまう
この世界
生まれ赤子の心のように
霊人が地上人に語る時は、
その想念が同一線上に融和するが為である。
霊人が地上人に来る時は、
その人の知る総てを知ることとなるのであるが、
その語るのは霊人自身でなくて、
霊人と和合して体的の自分に語るので、
自分と自分が談話しているのである。
霊人は現実界と直接には接し得ない。
また地上人は霊界と直接には接し得ないのが原則である。
しかし、それぞれの仲介を通じていっても、
直接行うのと同様の結果となるのである。
為に地上人は直接なし得るものと考えるのである。
地上人の思念の中には霊界が映像されており、
霊人の思念の中には現実界が内臓されている。
故に、この二つの世界が一つに見えることもあり得るのである。
しかし、映像と実相のへだたりはかなり遠いものである。
霊人の地上人との交流において、この間の真相を知れねばならぬし、
その互に交わされる談話に於ても前記の如くであることを知らねばならない。
霊人が地上人に憑依したり、
動物霊が人間に憑依したりすることは、
前記の如き原則によってあり得ないのである。
しかし、外部からの感応であり、
仲介された二次的交流であっても、
その度の強くなった場合、
地上人から見れば憑依せると同様の結果を表すものである。
故に、神が直接、
人間を通じて人語を発し、
または書記するのではなくして、
それぞれの順序を経て地上人に感応し、
その地上人のもつそれぞれの人語を使用して語り、
その地上人のもつそれぞれの文字を使用して神意を伝達することとなるのである。
しかし、神の言葉は、
如何に地上人を通じて人語としても、
その神に通ずる思念と内蔵せぬ地上人には、
伝え得ないのである。
語れど聞き得ず、
読むともその真意は通じ得ないのである。
霊人の中には、
自分達の住む霊界の他に、
別の世界が限りなく存在することを知らず、
また、その世界に住む霊人を知らず、
また物質世界と地上人を知らない場合もある。
それは丁度、
地上人の多くが、
生前及び死後の世界を信じないのと同様である。
〜429・430頁〜
〜
浄化し弥栄しゆく悪は悪ではなく、
偽は偽ではない。
動かざる善は善でなく、
進展せぬ真は真ではない。
更に善を善とし、
悪を悪として、
それぞれに生かし弥栄するのを歓喜と云う。
歓喜は神であり、
神は歓喜である。
〜386頁〜
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善行を心で思っているだけでは
何にもならない
それを為してこそ
善であり真となる
悪行を為しても
その行為をした自分を
反省し乗り越えるために
許すという
身魂の掃除洗濯
喜びの心で為してゆく